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図書室の悲惨  (福場将太・著)
■第二章「狂気噴出」

 その人物は図書室にいた。委員たちと談笑していた時刻からまだ1日と経っていないのに、その面持ちはまるで別人のようだ。いや、『別の生き物』と言った方が近いか…。
 その人物の右手には包丁が握られている。
「さあ、始まりだ…」
 静かに、しかしはっきりとそう呟き、その人物は包丁を突き立てた。




  1997年11月11日(火) 7:55 am

 岡本恵は車をフゾクの教員駐車場に滑り込ませた。普段なら彼女は自分のデスクがある司書室へこのまま直行するのだが、今朝はまず印刷室へ向かった。印刷室は1階、駐車場から校舎に入ってすぐ右側にある。まだ早い時刻なのに、印刷室の中からはゴトンゴトンと印刷機が動いている音が聞こえてくる。
 彼女がドアを開けると、力強い声が迎えた。
「おはようございます、岡本先生。早いんですね」
 そう言いながらそこにいた男は黒いヘルメットを脱いだ。中から現れたのは角刈りでモアイのように直線的な顔…。タイトな黒いバイクスーツに身を包み、それには不釣り合いなゴム長靴を履いている。
「おはようございます、沖渡先生。そちらもお早いんですね」
 相手の背が高いので、彼女は見上げるように話しながら近づいた。彼は沖渡雅文(おきと・まさふみ)、数学教師。推定年齢30代中頃。快活なのかおっとりなのかよくわからない性格だ。彼は直線的な表情を崩さすに言った。
「印刷ですか?すいません、今私が使っちゃってて。でももうすぐ終わりますんで」
 ここは印刷室、といっても印刷機は1台しかない。伝統あるフゾクであるが、それだけに校舎や設備はかなりレトロ…まあ、これもフゾクの味なのだが。
 ちらっと岡本がそれに目をやると、彼は何やら数学の問題を印刷しているらしい。おきまりの三角形に外接している円の図が見えた。
「いえ、いいんですよ。昨日ここに忘れ物しちゃっただけですから。図書新聞の原盤なんですけどね、印刷だけしてそれを忘れて帰ちゃったんです。もう印刷はしたんだから原盤は捨てちゃってもいいんですけど、せっかく生徒たちが作ったものですから。
 印刷したのは昨日のお昼休みで…、生徒から質問を受ける予定があったのを思い出して慌てて司書室に戻っちゃったんです。ドジですよね、それで原盤忘れていっちゃったんです。まだあるかしら?」
「それなら奥の机の上です。確かそれっぽいのがありましたよ」
 沖渡は印刷機に目をやったまま話す。
「ということは何です?また新しい号が出るんですか?いや、楽しみだなあ。私結構あれ好きなんですよ。漫画紹介のコーナーとかも、今の子供たちがどんなものを読んでるのかわかったりして。私は荻原望都さんとか好きでしたねえ」
 岡本は見つけた原盤を手に取りながら言う。
「まあ、そうでしたか。図書新聞のファンがいたんですね。委員の生徒たちも喜びますわ。じゃあこれ、お読みになりますか?」
「いえ、ちゃんと印刷されたものを渡されてから読みます。楽しみは後にって感じで」
 そこで印刷の音が止んだ。どうやら終わったらしい。沖渡は印刷されたプリントの束を抱えながら尋ねた。
「岡本先生はこれからどちらに?」
「これからポストの司書室へ向かいますよ」
「じゃあ、私もポストの数学準備室までつき合いますよ。図書新聞のこと、もっと聞かせてください」



 2人は4階に上る。廊下の右側はそのまま外に面し、教室は左側に並んでいる。道なりに進んでまず岡本のデスクのある司書室、そして図書室・書庫と続き、その次が沖渡のデスクのある数学準備室となる。この階に限らずだが、学校というものは直線廊下に同じドアの連続である。この構造が少し冷たく支配的・管理的な印象を生徒たちに与えてしまうのかもしれない。ちなみにこの4階は校内で一番高い場所なことから、生徒からは『フゾクのチベット』と呼ばれ、定年の近づいた老教員達には階段の往復は少し辛い運動になっているようだ。この2人はまだまだ大丈夫そうだが。
「いやあ、心理テストのコーナーもいいですよね。前やってみたら私は芸能人に向いてるって判定だったんです。教師と芸能人…近いような遠いようなですよねえ」
 少し低めでよく通る声で沖渡は話す。その横で岡本も合わせて笑う。そんなうちに、2人は司書室の前に到着した。
「あらっ…?」
 岡本が図書室の方に目をやってそう呟いた。
「えっ…、どうかなされました?」
「あれ、図書室のドア、開いてます…よね…?」
「え、あっ本当だ。確かに前方のドアが開いてます。昨日施錠して帰らなかったんですか?」
「いえ、確かに…」
 岡本は不安そうに歩みを速める。沖渡もその後ろを追う。引き戸式のそのドアは半分だけ開いている。岡本はドアを完全に開け、室内に目をやった。
「…!!」
 岡本は息をつまらせた。後から来た沖渡も急いで覗き込む。一見何事もないが、図書室の静寂な雰囲気に明らかにそぐわないものがそこにはあった。
 カウンター前、3列の長机。真ん中の机の中心に…包丁が垂直に突き立っているのだ。そしてその机一面に赤黒い液体が広がっている。明らかにそれは血を思わせた。
 沖渡はプリントの束を足下に静かに置いた。
「私が見てきます。岡本先生はそこで待っていてください」
 岡本は何も言わず微かに頷く。沖渡は静香に入室し、足音なく問題の机に近づいた。
「これは…、血ではありません。多分塗料でしょう。包丁は本物のようですが…」
 彼はそう言って机を凝視している。その姿はまるで数学の難問に取り組んでいるかのように真剣…恐怖よりも興味に突き動かされているかのようであった。
「岡本先生、今学校に来ている教員を全員集めてください。始業時刻の9時までまだ時間がある。警察に通報するかどうかはそれからです」
「は、はい」
 岡本はとりあえず職員室へ向かった。あそこなら誰かいるはずだ。走りながら彼女は沖渡の意外な冷静さに驚いていた。彼女自身は正直事態をまるで呑み込めずにいる。
(あの光景は何だ?誰かの悪戯?沖渡先生も見ているのだから夢や幻ではない。あのドアは、確かに昨日予備の鍵で施錠して帰ったはずだ…!)

 その頃沖渡は、静かに室内を見回していた。他に普段と変わったところはないようだ。そして壁の時計が目に入る。
「8時10分…か」




 午前8時30分、アカシア大学附属高等学校の教員たちが図書室に集まった。生徒に不安を与えぬため校内放送を使わなかったこと以外にも、岡本がうまく事情を説明できず戸惑ってしまったというのも集合に時間がかかってしまった理由だ。8時40分からの1時限目に授業を持っている者や急ぎの仕事のある者はその場には来なかった。
 本日は校長が大学の方に行っているため、教頭である酒井が教員たちをまとめる。彼は沖渡と同じく数学担当の50代中ごろ。少し白髪の混じった七三分けに薮睨みの目が特徴だ。
「先生方、こういう状況なわけです…といってもわからない事だらけですが。もう1度岡本先生と沖渡先生に事情を話してもらいましょう」
 2人は今朝の経過を説明したが、ようするにただ発見しただけという内容だ。
「…うむ、ところで岡本先生、昨日確かに図書室は施錠しましたか?」
「はい、教頭先生。それは確かです。でも…」
「でも、何です?何かあるんですか?」
「じ、実は昨日の午後…だと思うんですけどここの鍵がいつもの位置にないのに気づいて…」
「それで?」
「まだ見つかってないんです…。それで、予備の鍵で施錠しました。だから…」
「なるほど、つまりその鍵を使えば入室できた、と。そうなると誰かがこんな悪戯をするために鍵を盗んだと考えるべきでしょうかな?」
「まさかそんな…、わ、私の監督不行き届きです、申し訳ありません!」
 岡本はヒステリックに教頭に頭を下げた。
「まあまあ、そのことは後にして。とりあえずこの図書室はどうしますかな。あの机以外特に問題は無いようですから、片付けるのはそんなに難儀ではないと思いますが…」
「酒井教頭!」
 そこで沖渡が一歩前に進み出た。
「片付けるのは問題ないと思いますが、もう少し待ってください。塗料はともかく包丁が使われているのですからやはり尋常とは言えません。もう少し調べてみてから、せめて図書委員たちからは事情を聞くべきだと思いますが」
「そ、そんな…」
 岡本がブンブンと顔を左右に振った。
「辛いのは分かりますが、岡本先生、これは大事なことなんです。犯人…と言ったら少し語弊があるかも知れませんが、犯人はまだ鍵を返していないんです。もしかしたらまた何かするつもりかもしれません。この悪戯…が図書室で行なわれたのには、それなりの意味があるはずなんです…多分」
 酒井が口を出す。
「それは沖渡先生、犯人…が図書委員の中にいるという意味かね?」
 その言葉に岡本もキッと沖渡を睨む。
「いいえ、けしてそんな意味ではありません。私だって生徒たちは信頼しています。ただ、図書委員なら何か思い当たることがあるかもしれないと。それに…」
 沖渡はそこで口を閉じた。
「それに、何だね?」 
「いいえ、それだけです」
 酒井は少し顔を曇らせ手言う。
「一部の生徒に知らせるとなると、学校全体に噂が広まるのは避けられんと思うがそのことは…」
「それは私から委員たちに口外しないようしっかりと言います。彼らは信頼していいと思います」
 と、岡本。
「ううむ…、どちらにしても授業時間中にドタバタ片づけをするわけにもいかんしな…。分かった、今日一日はこのままにしておこう。今日はちょうど放課後大掃除だから、片付けはその時に図書委員の生徒がすればいいだろう。
 沖渡先生、岡本先生、じゃあ昼休憩にでもその委員の生徒たちに説明をお願いします。今日は図書室は閉館にしますから。校長には私から伝えておきます」
 酒井はそこで他の教員たちに目で確認を取った。
「先生方もよろしいですね。むやみにこのことを口外なさらぬように」
「わかりました、教頭先生。どうも、申し訳ありませんでした」
 教員たちが散会する中、岡本はもう1度深々と頭を下げた。隣で沖渡もそれに合わせる。
「岡本先生が謝ることではありませんよ」
 頭を起こして沖渡が言った。物差しで書いたような直線的なその顔には、相変わらず表情が無い。
「ええ、でも…」
「それよりも、ちょっとこちらに来てください」
 岡本の返答を待たず沖渡は彼女を図書室の問題の机に導いた。そして机に突き立った包丁の柄の部分を指差して言った。
「この柄の部分に、持ち主の名前みたいな感じで文字が書いてあるんです。多分黒マジックで書いたのでしょうが、これは…『大工』、ですかねえ」
 それを見た岡本の背筋に悪寒が走り、彼女は一歩後ろにたじろぐ。沖渡はそれを見て、ゆっくりと言った。
「何か…思い当たることが…あるんですか?」
「ええ、いや、そんな、でも…」
 岡本は何がなんだかわからないといった感じだ。
(そうだ、確かに昨日委員たちから聞いた謎の図書延滞者『大工』…。しかしその名が何故この包丁の柄にまで?
 『大工』がこれをやったのか?悪戯の一環として?そんな…)
「岡本先生、大丈夫ですか?」
 沖渡が無表情な顔で、迫り来るようにいたわる。
「だ、大丈夫です。でも、そのことはお昼休みに委員たちを集めた時にお話します。いいえ、直接委員たちから聞いた方がいいと思います」
 岡本は右手で額を覆いながら、うつむきがちに答えた。
「そうですか…。わかりました。…では私は2時限目に授業がありますので」
 そう言うと沖渡は無表情のまま静かに図書室を出ていった。その動きはまるでロボットのように正確で、不気味なほど足音がない。彼が出ていくのを見届けてから岡本は大きな溜め息を吐いた。そしてもう1度包丁に目をやる。
 確かにそれは『大工』と読める。あまり深く考えないことにして、彼女も足早に図書室を出た。そして、予備の鍵でしっかりと施錠し何度もそれを確認する。
(そう、たいしたことじゃない。質の悪い誰かの悪戯に違いない…)
 彼女はそう頭の中でくり返し続けた。

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